R.Sppizzichino 氏を想う

震災があった2011年の一昨日。
P.Motianの逝去が報じられたその影で偉大なアーティストが亡くなっていた。

 

 

Roberto Spizzichino氏。
亡くなる7ヶ月前にイタリアで実際にお会いして、工房でシンバルも譲り受け、その後何度かメールのやり取りをするくらい仲良くなったので、酷く落ち込んだ。

奇しくもその訃報を知った日はタワーレコでの店頭コンサート直前で、彼がワタクシに薦めてくれたライドとクラッシュを持って来ていて、それら一式でそのコンサートをまさに演奏しようとした時だった。

 

思えば、2011年になった年始、欧州の友人たちから「スピッツさんがかなり具合が悪いようだけど、早く会いに行った方が良いよ、、」という連絡がきて。

3・11の震災の2週間くらい後 (早くから航空券を取っていたので、震災後で精神不安だったが)にトスカーナ州の片田舎に彼を尋ねた。

 

アメリカ人の友人(ドラマー=J・ウエインステイン氏)がイタリア人の奥さんとイタリア国内に住んでいたので、現地で待ち合わせて3人で彼の工房を訪れたのだ。

スピッツ氏も治療のため放射線を受けていると言っていたが、お前も放射能大丈夫か?と言われたのが彼との最初の会話だった。何故か初めて会ったような気にさせない人だった。

 

最寄り駅から工房のある山の頂上まで車で約40分。お昼過ぎに着いて、スピッツさんの楽しいお話とシンバルを叩きに叩きまくって、しかもシンバルを作る工程まで短い時間で見せてくれたのだ。

手持ちのシンバルを持っていきそれを基準にして選ぶのだが、それこそ時間を無駄にしないように、これならこれを勧める!という風に色々サジェスチョンしてくれて、スムーズにシンバルは選定されて行った。

 

楽しい時間を過ごしているうち外は真っ暗、気づいたら夜の11時を回っていた。ハグをしてスピッツ氏と再会を誓ってお別れ、山を降りて、その夜は地元のホテルに3人とも宿泊した。
ウエインステイン氏の奥さんが、「早くこれを日本に持って帰って、被災した人たちの傷ついた心を癒してあげないとね、、」と言ってくれて、つくづく自分の使命を感じた。

 

 

それから帰国して、すぐに使ってみたら、なかなか難しくて倍音のコントロールがうまくいかず、周りの共演者にも「ちょっとうるさいかもね、、」と言われる始末。

 

音色とこの楽器の持つ可能性は気に入っているが、まだまだ新しいので音色がまだ鉄っぽくてキツイ。

 

最近市場に出回っているシンバルは、すぐに使えるようにわざと暗い音が出るように最初から手が加えてあって、それがワタクシの耳にはすごく不自然に響く、、、だがこのシンバルはもう天然100%なので最初はちょっとまた青くてかなり使いにくいのだ、少しづつ鍛えて現場に慣らしていかないといけない。

 

ある日のギグで大概コントロールが大変なので、ステージの休憩時間にスピッツさんにSkypeで電話したことがあった。彼は別れ際に渡したワタクシのCDをすごく気に入ってくれたみたいで、「ジャズの伝統がしっかり聞こえてくるのに、オリジナルで素晴らしいタッチだ!」「あのシンバルはスペシャルなんだ、だから叩く人もスペシャルでないとうまく扱えないよ、お前なら大丈夫だ!!」と言ってくれて、そのあと良い気分で演奏できたのを覚えている。

 

実は彼は自身が職人としてスペシャルなのだが、少し前までは現役のジャズドラマーだったのだ。実際試奏の時に何度か聴いたが、一節でかなりのモンだと分かるくらいの雰囲気だった。

 

それから半年ほどして飛び込んできた彼の訃報は、本来ワタクシのアイドルでもあるモチアン氏の死よりも酷く堪えた。

 

扱いも十分分かってもう手放せない彼のシンバルは、今でも宝物でありずっと大切に使っている、、

 

あれから丁度7年、、彼を想う。

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